God’s will
石原慎太郎さんと曽野綾子さんの対談をまとめた「死という最後の未来」という本を今読んでいるところです。
その本の中に、私が素晴らしいなあと思ったフレーズがあったので紹介してみたいと思います。
石原; 曽野さんは運命そのものを、どう捉えているのですか。
曽野; カトリックの世界にはGod’s will という言葉が常にあって、神様の思し召しだと思うことにしています。私は、こうしたいとかああなりたいとか神様に登録するんですよ。それを聞き入れてくださることもあれば、聞き入れてくださらないこともある。8割ぐらいは運命に流されて、2割ぐらいは自分で舵をとってというのがいいんじゃないかと思います。
ここで曽野さんはこんなことを言っているんじゃあないかと私は思いました。
{どのように死を迎えるのか?それは考えてみてもわからないこと。いたずらに不安に思うのではなく神の思し召しに任せるしかない。ひるがえって、自分がどうして生まれてきたのか? どんな人生を歩んだきたのか? どんな人と知り合ったのか? 今現在、自分がどんな状態にいるのか? それらは親や学校や教育などのほかにも自分がどうしようと願ったのかあるいはそのためにどの程度一生懸命にがんばったのかに深く関係しているであろう。しかしだ。どうやっても思うようになれなかった場合もあっただろう。それをキリスト教は「神の思し召し」という。キリスト教信者でない人は「天命」とか「自然の摂理」とか「運命」などと呼ぶであろう。}{世の中には自分の意思と関係なく動いているものがある。自分の意思の領域に入らないものはどうしようもない世界である。それはまさしくGod’s willである。}